【藤本タツキ】22-26【短編集】あらすじ&感想

22-26のアイキャッチ画像です マンガ

「ファイアパンチ」「チェンソーマン」を生んだ鬼才・藤本タツキ先生の短編集「22-26」「17-21」に続く藤本タツキ先生の短編集第2弾を紹介していきます。
「17-21」も紹介しておりますので、そちらもぜひご覧くださいね!!
(「17-21」紹介ページはこちら→藤本タツキ先生初期短編集「17-21」
ちなみに「17-21」の表紙は月から見た地球、「22-26」の表紙は地球から見た月が描かれており、対比となっています。

港町に住むトシヒデ。不登校気味な彼は幼いころに母親を失くしており母の記憶がありません。トシヒデの父親は妻を亡くしたショックで無気力となり、息子のトシヒデにも無関心です。
そんなトシヒデの唯一の楽しみは、人魚が作ったと噂される海中でも音色を奏でる不思議なピアノを弾くこと。人間を食べる人魚は恐れられていますが、トシヒデは人魚に会いたがっています。それは彼の母親が人魚だったから。海の中でピアノを弾く瞬間だけ母親のことを思い出せそうな気がするからと溺れそうになるまでピアノを弾くトシヒデ。ある時本当に溺れてしまいますが、そんな時、人魚のシジュがトシヒデを救います。
そこからトシヒデと人魚シジュの触れ合いが始まり、二人はピアノを通して心を通わせていくのですが、人間を食べる人魚であるシジュはある事件をきっかけにトシヒデを襲ってしまいます。それでもトシヒデはシジュとの交流を選び、ついにはシジュ以外の人魚たちにも存在を認められるのでした。
少年と人魚が心を通わす様子が、海中の幻想的なシーンと共に描かれる爽やかな本作。作中でトシヒデの父親が人魚である母親への想いを語る「こんな綺麗に笑う人になら、食われてもいいと思うくらいには好きだったんだよ」というセリフがとても印象的です。読んだ後に心地よい読後感を得られました。藤本先生の作品には珍しいハートフルな本作ですが、さすがは藤本先生、人間であるトシヒデが海中でピアノを弾き続けるアイデアはかなり攻めていると思います。
本作はSQ.編集部に、藤本タツキは普通の話を書けないみたいなことを言われて、反骨精神で書き上げた話とのこと。どうりで爽やかなわけですね笑。今見ても普通の話、と藤本先生はいいますが、少年と人魚の交流をウェルメイドに仕上げる藤本先生の手腕は流石です。

目が覚めたら女の子になっていたトシヒデ(本作の主人公もトシヒデという名前ですね)。病院に行くも珍しい病気でその名も「目が覚めたら女の子になっていた病」と告げられ、治らないときっぱりと告げられたトシヒデ。そんな彼は彼女のリエに泣きつきますが、男のくせに泣くなよ、と一蹴されてしまいます。
仕方なくそのまま学校へ行くトシヒデは女の子として学生生活を過ごすこととなりますが、もともといじめられっ子だったトシヒデは、男子からはからかわれ、本当の女子以上に可愛くなってしまったがために女子からも疎まれます。
男子から冗談では済まされない絡まれ方をされているその時、リエの兄であるアキラに救われます。リエと家へ帰ったトシヒデはめそめそと泣きじゃくりリエに慰められますが、リエの兄であるアキラを、女の子が男の子を見る感じでかっこいいなと思った、と告白するトシヒデ。心の中まで女の子になっちゃったかもしれないと心配します。それを聞いたリエは嫉妬し、トシヒデに襲い掛かります。間が悪く帰宅した兄のアキラ。リエはアキラへ殴り掛かりお兄ちゃんがトシヒデと付き合え!!と吐き捨て家を飛び出してしまいます。僕のせいだ、と呆然とするトシヒデ。そんなトシヒデにアキラは問いかけます「お前は男か?女か?」「女ならそこで泣いていろ」「男なら今すぐリエを追え」と。
家を飛び出してリエを追いかけるトシヒデ、リエを捕まえキスをします。「僕が好きなのはリエだけだから!」と想いを伝えるトシヒデ。リエは「…惚れ直した」と頬を赤らめます。
最後はトシヒデの「女の子みたいになってしまった僕は男の子みたいになろうと思った」というセリフで物語が締めくくられます。
ある日目が覚めたら突然性別が変わっていたというありがちな設定ですが、もともと女の子っぽい子が女の子になってしまい、しかも彼女がいて、彼女の方は男よりも男らしい性格という物語は流石は藤本先生ですね。なかなかエグめないじり方をする男子を兄のアキラがぶん殴るシーンは爽快です。女らしさ男らしさという今では描くのがなかなか難しいテーマを藤本先生らしくエッジの効いた描き方をしています。最後のトシヒデのセリフはこれを描くために本作があるといってもいいくらいとても印象的です。

「母体を貫きツノを持つ魔法使いが産まれる、その者人の心を持たず、残酷で理解不能な言葉を喋り、やがて世界を滅ぼすだろう」世界中の魔法使いが予言したとおり、ツノを持って生まれてきたナユタ
そんなナユタを養うため兄のケンジは学校へも行かずに働いていますが、予言の子を妹に持つケンジに世間の風当たりは厳しく仕事をクビになってしまいます。町では、世間の魔法使いが予言の子を排除しようと抗議活動を行っています。抗議活動を横目に歩くケンジですが、確かにナユタはおどろおどろしい単語を並べることでしかコミュニケーションがとれず、ネズミの首を大量に千切ったり、砂犬(すないぬ)をバラバラにしたり、何を考えているかケンジにも分かりません。しかしたとえ悪い人間でも自分の妹であり、何があってもそばにいるとケンジは決意しています
ケンジが家へ帰るとナユタは魔法で作り出した剣で仕留めた鳩をケンジへ投げつけます。ケンジは恐怖を感じつつもナユタのためにご飯を作り、大食いのナユタへ自分の分のご飯も譲ってあげます。歯磨き、お風呂とかいがいしくナユタの面倒を見る毎日を送ります。
そんなある日、夜中にナユタは寝床を抜け出し牧場の家畜すべてを魔法で作り出した剣で始末してしまいます。兄であるケンジは抗議に来た牧場の人々から非難されますが、ナユタが何を考えているかわからず、ただただ頭を下げることしかできません。けじめをつけるため、ナユタへ朝までには帰るからと告げ家を後にします。ナユタはケンジとの日々を思い返し、「ゴメンナサイ」(イが反対を向き、間違っています)と手紙を書きます。朝になり家に帰ったケンジはボコボコに殴られたボロボロの状態で崩れ落ちます。
身体の痛みと臭気により目を覚ましたケンジ。机には豚の頭、「タクサンタベテクダサイ」という手紙とサンドウィッチが。ケンジはそれを見てナユタが動物を始末した理由は自分に飯を食べさせるためということに気づきます。ナユタの気持ちを感じ取り、ナユタを探しに家を飛び出したケンジですが、空に浮かぶ無数の大剣を目撃します。暴走したナユタが魔法により呼び出した武器により町は大混乱しており軍隊も出動しています。しかしナユタの魔法の前に誰もが手も足も出ません。ナユタを見つけたケンジ。つかつかとナユタに近寄り、ペシッと頭を叩きつけ「ナユタっ人が死んだらどうすんだ!!」「今すぐ!!」「やめなさい!!」と𠮟りつけます。親に叱られた普通の少女のように喚きながらなくナユタ。ケンジは、ナユタを叱るのを怖がって叱ったことがなかった、自分はナユタを分かっていなかった、ナユタは残酷で価値観が違って世界を滅ぼすかもしれないだけの「俺の妹だった」と気づきます。
街から逃げ出し兄妹二人で旅をするケンジとナユタ。ナユタは紙に文字を書きケンジへ見せます。「ワタシコワクナイ?」(イは相変わらず反対を向いています)。ケンジは「こわくないよ」「俺の可愛い妹だからな」と答えるのでした。
兄ケンジと予言の子ナユタの兄弟愛が描かれる本作は藤本先生のエッセンスのようなのものが全て詰め込まれているように感じます。まずナユタが話す言語がすべて「爆発」「臓物」「終焉」「切断」「破壊」等恐ろしい単語で構成されるアイデアが素晴らしいです。武器を生み出す魔法の演出も秀逸。理解不能な妹を恐れていた兄が、一人の妹としてナユタと向き合うようになる本作は、藤本先生らしいアイデアと愛であふれた作品です。
藤本先生は本作を、SQ.編集部に藤本タツキは個性的なキャラクターを書けないといわれて、なにくそと書き上げたそうです。ナユタは今でも好きなキャラクターと語る通り、チェンソーマンの主人公デンジが育てる女の子の名前もナユタです。チェンソーマンが好きな方はぜひ本作も読んでみてくださいね。

美術学校に通う光子。彼女は美術学校に入学したことを後悔しています。油絵で部屋の中は臭くなるし、就職先なんて全然ないし、共学なのにクラスに男子が一人もいない、何より一番最悪なのが、学校主催のコンクールで金賞を取った絵が玄関前に一年間も飾られる事、と語る彼女。学校の玄関には光子がモデルの裸の絵がでかでかと飾られています。
絵のせいで学校中で好奇の目にさらされる光子。先生に絵を外してくれ、と懇願しますが、学校の伝統だからと相手にされません。そんなに嫌なら作者に文句を言えと言われますが、作者は実の妹なのでした。
実の妹が姉の裸体を想像で描いた絵は金賞を獲得し大きな話題となり、ついには親戚一同が絵画の前で記念写真を撮り始めます。激しい屈辱を受けた光子は仕返しを決意。妹の部屋へ行き、妹の裸体をモデルに絵を描くため、妹の服を脱がします。妹はモデルになりながら姉に、なぜ絵がうまいのに就職をするのかと問いかけます。三年生の展示を見たけど、お姉ちゃんの絵が一番上手い、と妹は言いますが、光子は「でも一年生のアンタより下手なの…!」と嫉妬を告白するのでした。
妹はいつも私の後ろを追いかけてくる、と回想する光子。光子が先に始めたものを妹は後から始めるから、当然光子の方が上手で妹といると心地よさを感じていた光子。美術高校に入る時も光子を追いかけて入学してきた妹。光子の方がずっと先に絵を描き始めていたのに、妹は特待生で学校に入学しました。光子はそれから妹と話さなくなったのでした。
ぼーっと自分の裸体が描かれた絵画を眺める光子。そんな光子に先生が話しかけます。この絵はいっつも授業のやる気がない光子の妹が、やたらと時間をかけて書いたと先生は話します。変態なんでしょ、と吐き捨てる光子。先生は「自分の目標を描けって授業で自分の姉を描いたんだぜ」「でっかく期待されたもんだな」と光子に伝えます。そこから光子は絵に真剣に取り組み無我夢中で絵を描き続けます。妹は自分のことを見続けていたから想像で自分のハダカを描けた、私は妹のことを見ないようにしていた、だから私は妹のハダカを描けない、と語る光子。だけど、「教えなければいけない」「妹よ」「ハダカとはこう書くものなのだ…と」「だって私は妹の姉だから」と光子は吹っ切れます。
春になり学校の玄関の絵が交換されます。その絵画はまたもや光子がモデルの裸体。
絵を前に光子は妹へ伝えます。「私のハダカとはこう描くのだ」と。
姉と妹の関係性を「絵」をとおして描かれる本作。いつも自分の真似をしていると思っていた妹が、自分をあっという間に超えてしまったときの姉の気持ちを考えると切なくなります。しかし妹の憧れはいつまでも姉の光子です。光子が絵と真摯に向き合い、妹が描いた理想化した光子ではない、スタイルもよくなく胸も大きくない切なげな表情とは真逆の挑戦的な顔つきで自分自身を描き、金賞を獲得するのは痛快ですね。あんなに恥ずかしがっていた自分の裸体を自分自身で描くことで、妹への嫉妬心・劣等感を乗り越えたことを表現する藤本先生はさすがですね。
最後のシーンでは東京に就職した光子のもとへ妹が押しかけ二人暮らしすることとなり「結局私は妹から離れることができないのだ」「だって私は妹の姉だから」と締めくくられます。姉は結局就職し、家へ押しかけてきた妹は画材を持ってきているので絵を続けているようです。姉・光子は結局、絵はやめてしまったのでしょうか。少し切ない終わり方ですが、それでも「妹の姉だから」という最後のセリフで見事に物語にオチをつけています。
藤本先生は本作を「ルックバック」の下敷きにあたる作品と位置付けています。藤本先生作「ルックバック」も間違いなく名作ですので、違う機会に紹介したいと思います!!

藤本タツキ先生の短編集「22-26」を紹介していきました。
藤本先生の「チェンソーマン」「ルックバック」の源流のような作品が収録された本作。初期短編集だった「17-21」から圧倒的に画力・プロットが向上しており、偉そうな言い方となってしまいますが藤本タツキ先生のめざましい成長が感じられる短編集となっております。
登場人物の心情に寄り添った作品が光る本作。少年漫画とはまた違った味の藤本タツキ作品を感じられる短編集ですので、皆さんもぜひ手に取って読んでみてください!!(あとがきの藤本先生のメダカのエピソードにもクスッとしますので要チェックです

コメント

タイトルとURLをコピーしました